恋 〜白の章〜 第12話

弥生は再び着替えると、家から少し離れた喫茶店へ向かった。
「いらっしゃいませ・・・。」
ウェイトレスの女性が弥生を迎える。
弥生は窓際の席を見た。
そこには初老の男が座っていた。
何も言わず、弥生はその席へと向かっていた。
白髪は混じっておらず、その目は見るもの全てを威圧しているようだった。
弥生は男の正面へ座った。
テーブルに肘をついてぼんやりと外を眺めていた。
車の行き来はまばらだった。
知った顔があるわけでもなかった。
目の前に座っている男と目を合わせたくない。
私たち家族の現状を作ったきっかけであるこの男と。
それなら、どうしてここに来たのだろう。
「久しぶりの再会なのに挨拶も無しとは、私も嫌われているものだな。」
先に口を開いたのは男の方だった。
弥生は顔を正面に向けた。
鋭い目が弥生を捉える。
それでも弥生は平然としていた。
「この際だから、はっきり言わせてもらっていいかしら。」
弥生は男の眼光に似た目をしながら。
「二度と私たちの前に現れないでほしいの。私は、あなたを絶対に許さない。それに、地位や名誉や世間体に縛られた家になんか帰る気も無いわ。」
「何を言う、帰ってくれば今よりも楽な暮らしができるのだぞ。」
その時。
弥生の中で何かが切れた。
「私たちから何もかもを奪ったのは、あなたじゃないの!」
テーブルを叩いて弥生は立ち上がった。
何事かと、客の視線が二人に集まる。
「私は許さない・・・あなたがしたことは人間以下の行いよ。よくもぬけぬけと私の前に現われることができたわね!」
もはや弥生に周りは見えていなかった。
感情の高ぶりと共に、心臓の鼓動が早くなる。
いけない・・・!
気づいた時には、既に遅かった。
急いでハンカチを出すと、口を押さえた。
「かはぁ!」
赤い雫がハンカチを持った弥生の手から零れる。
身体に力が入らない。
いつもなら、意識はハッキリしているのに。
膝が折れる。
ガシャン、という音がしてガラスのコップが床に落ちた。
破片が床に散らばる。
私も同じようなものだ。
薄れていく意識の中で弥生は思っていた。
壊れやすく脆いガラスの命。
あの男が倒れていく私を抱きとめた。
弥生が覚えているのは、そこまでだった。

弥生の父は『白河グループ』会長の一人息子として、幼い頃から手塩にかけて育てられてきた。
彼には許婚がいた。
同じ実業家の娘だった。
だが、彼が愛した女性は違う。
ごく普通のただの女。
弥生の祖父は激怒した。
地位、名誉、その他。
白河グループが失うことになるものは数知れない。
嘲笑う親類たち。
これで親類の誰かが後継者となる可能性も生まれる。
だから二人は逃げた。
祖父の手は、どこへ行っても追いかけてくる。
その度に二人の生活は乱される。
住んだ場所にはいられない状況に追い込まれた。
その頃だった。
二人の間に、新しい生命が誕生した。
弥生のことを知った祖父たちは、手を出すことを躊躇していた。
仮にも白河グループの跡取りとなる資格を持った子である。
下手な手出しはできない。
やっと安住の地を見つけたと思っていた。
苦労はしながらも、弥生は中学生になった。
そして、あの事故が起こった。
弥生の父は帰らぬ人となった。
その日、彼は身体を患っていた。
それでも家族のため、仕事に出て行った。
事故は不幸だったのか。
それとも、彼は何もかもから解放されたのか。
ただ一つ言えることは。
彼が家族を愛していたことだけである。

弥生は目を覚ました。
病院のベッドの上だった。
良く知る場所だ。
今日は二回目の来院だ。
弥生が苦笑していると、病室のドアが開いた。
あの男だった。
父と母の幸せを踏み躙った憎い男。
「弥生、私がここに来た理由を話しておこう。」
弱りきった身体に力を入れながら弥生は起き上がった。
「お前は将来、私の跡を継ぐのだ。実家に帰りなさい。」
弥生は言葉を失った。
それはつまり母親を捨てろ、と言っているのだ。
身体が自然と震える。
そんなこと、できるはずがない。
心が壊れそうだ。
ガラスのコップが割れた音が頭の中で反芻する。
もうやめてほしい。
ただ一人、自分のことを大切にしてくれている友に弥生は助けを求めていた。