恋 〜白の章〜 第14話

9月1日。
長い夏休みも終わった。
週に何度かは羽鶴に会っていたので、退屈はせずに済んでいた。
勉強もそれなりにはしていたから、大丈夫だと思っている。
また今日から学校が始まる。
ウンザリする毎日が続くと思うと、弥生は憂鬱な気持ちを隠し切れない。
母は仕事に行ったようで、起きた時にはいなかった。
さてと。
顔を洗うと、パジャマのままキッチンへ向かった。
弥生はコーヒー豆を戸棚から出してきた。
やっとインスタントはやめた。
何だか気持ちが大きくなってくる。
私も安っぽい人間だ、と思いながら朝食の準備を始める。
トースト1枚とコーヒーだけ。
夏休み明け初日から朝食に張り切る元気は無い。
どうせ私一人だけ。
片づけが面倒になるだけだ。
時間は、いつもよりもかなり余裕があった。
昨日は早めに寝て正解だった。
夏休み中は夜遅くまで起きてる日が多かったわ。
休みの終わり頃には元通りに調整してきて良かった。
軽い朝食を済ますと食器の片づけを始めた。
それも終わってしまうと、着替えを始めた。
制服を着るのなんて、休み中の出校日以来だった。
休みは家でラフな服装で過ごしていた弥生にとって、制服は息苦しく感じていた。
まだ男子の学ランよりはマシね。
詰襟って首が締めれられないのかしら。
「私には関係無いけどね。」
スカートのファスナーを上げると、鏡を見た。
そろそろ学校に行こうかしら。
鞄を持ち、机の上の鍵を持った。
キーホルダーを指でクルクルと回しながら玄関を出る。
またいつもと同じ毎日が始まる。
そう思いながらマンションの階段を降りていた。
休みなんて、いつかは終わる。
そんなこと誰でも知っている。
問題は、気持ちの切り替えができるか。
休み気分を引き摺っているようでは何もできなくなってしまう。
私は、そこまで子供じゃない。
そして満員電車に乗り込む。
少しでも人がいないところへ入っていく。
見知らぬ人間と触れるのが嫌だからだ。
我慢しながら電車に乗っていると、幾つもの駅を過ぎていく。
次第に乗っている人の数も減っていく。
弥生の心も次第に落ち着いていく。
だが、まだ油断はできない。
そろそろ『来る』頃だ。
「おはよ・・・弥生ちゃん。」
眠そうな目を擦りながら羽鶴が近づいてきた。
「おはよう。」
羽鶴が何を言いたいかは分かっている。
「休み中、ずっと夜更かしをしてたから・・・昨日の夜も眠れなかったの。もう、眠くて眠くて・・・。」
「はい、はい。」
呆れたような返事をしながら弥生は電車から見える外の景色を見ていた。
おかしい。
何か嫌な予感がする。
不思議と胸騒ぎを隠せなくなっていた。
手を胸に当てる。
心臓の鼓動が早まっている。
発作のせいではない。
きっと気のせいだろう。
何かを考えすぎなんだ。
無理にでも自分自身を納得させようとしている弥生だった。
電車を降りてから。
学校へ歩いている時も。
弥生は、ずっと下を向きながら歩いていた。
「弥生ちゃん、やっぱり身体が悪いんじゃないの?」
駅に着いた頃から羽鶴は弥生を心配していた。
「大丈夫よ、何ともないから。」
強がりだけではなかった。
何が私を、ここまで不安に思わせるのか。
その正体を見なければならない。
やっと学校が見えてきた。
私の思い過ごしだったに違いない。
弥生がほっとしているのも束の間。
校門の近くに黒塗りの高級車が停まっていた。
弥生の胸騒ぎがさらに高まる。
その車には見覚えがあった。
祖父が会社で使っている車だったから。
下を向いたまま、弥生は足早にその車の横を通り過ぎようとした。
何も知らない羽鶴は慌てて弥生の後を追った。
その時、弥生の行く手を遮るように車のドアが開いた。
後部座席からスーツ姿の男が降りてきた。
「お久しぶりですね、お嬢様。」
その男にも見覚えがある。
祖父の右腕と呼ばれている男。
まだ若いが、仕事はできるらしい。
「私に何か用ですか?」
何が起こっているか、まるで理解できていない羽鶴を右手で制しながら。
「用件は以前、会長がお伝えしたはずです。我々も身内で醜い争いは望んでいない。だから後継者であるお嬢様に帰ってほしく・・・。」
「帰れ!」
弥生は強い口調で言った。
近くを歩いていた通行人が何事かと振り返っていた。
「私は、私の生きたいように生きる。やりたいことをしていく。あなたたちに指図される覚えは・・・何も無い。」
弥生は羽鶴の腕を掴むと、男の横を通り過ぎていった。
ふざけないでほしい。
絶対に言うことを聞いてやるものか。
「弥生ちゃん、さっきの人ってもしかして前に言ってた・・・。」
校門を抜け、校庭を歩きながら羽鶴が言った。
「ごめん、何も言わないで。」
力無く弥生は微笑んだ。
「負けちゃ、ダメだよ。」
羽鶴の足が止まった。
「部外者には口出しはできないけど・・・弥生ちゃんは、弥生ちゃんなんだよ。私は、今のままの弥生ちゃんが好きなんだからね。」
「・・・ありがとう。」
一言だけ弥生は返した。
少しずつ胸の鼓動も収まっていく。
私に足りなかったもの。
それは挫けそうな時に声をかけてくれる友人だったのかも知れない。
誰かがいてくれるからこそ、私は強くなれる。
明日を見ながら生きることができる。
「私は・・・負けないからね。」
秋風が弥生の黒髪を靡かせる。
髪をかきあげる弥生の仕種に羽鶴は見惚れていた。
季節は移り始めていた。
私も、まだこれからだ。
心に新たな誓いを立てながら弥生は教室へ向かっていった。