恋 〜白の章〜 第16話

それは突然のことだった。
弥生が、いつものように朝食の支度をしている時だった。
急な目眩がして弥生は身体が崩れた。
床に片手をついて身体を支える。
喉の奥から込み上げてくるものがあった。
口を抑えた手の指の間から血が流れていた。
心臓が締め付けられるように苦しい。
息ができない。
いけない。
これは今までの発作とは何かが違う。
力を振り絞り、キッチンのテーブルの上に置いてあった薬に手を伸ばした。
蛇口を捻ると手で水を飲んだ。
荒い息を吐きながら、ゆっくりと呼吸を整える。
目を閉じ、心を落ち着ける。
大丈夫だ。
すぐに収まるはず。
まだ、どこか身体に違和感があるようだが発作自体は収まっていた。
「学校・・・行かなきゃ。」
手にこびり付いた血を洗い流すと、弥生は弱々しい足取りで部屋へと入っていった。
突発的に起こる発作だが、いつもとは何かが違っていた。
しかし、弥生は気にしないように努めていた。
学校に行かなければならない。
発作などはいつものことだ。
気にしていたら私は何もできなくなってしまう。
制服に着替え、玄関で靴を履く。
身体を前に屈めた時、軽い目眩が再び弥生を襲った。
視界がぼやけている。
頭を強く振って自意識を強める。
負けるものか。
私は生きるんだ。
以前の弥生からは考えられないほどの、生への執念だった。
電車に乗っているときも、決して身体の調子は良くなかった。
「おはよう、弥生ちゃん・・・。」
途中で電車に乗ってきた羽鶴も、弥生に声を掛けるのを躊躇っていた。
弥生は顔を真っ青にして、壁に寄りかかっていた。
「おはよう・・・何よ、その顔は?」
力無い笑顔をする弥生。
「弥生ちゃん、身体の調子が悪いんでしょう?無理をしない方がいいよ。」
「私は大丈夫・・・もう、駅は次でしょう。誰も・・・無理なんてしてないわよ。」
強情な弥生のことだ、帰れと言っても無駄だろう。
「辛くなったら・・・すぐに言うんだよ?」
「えぇ、分かったわ。」
学校へ歩いている間、二人はそれとない会話をしていた。
いつもの他愛もない会話である。
が、羽鶴は気づいていた。
弥生の呼吸が乱れていること、歩くのが辛そうなこと。
何もかもを強がっていることを。
止めたい。
今すぐにでも病院に連れて行きたかった。
それでも、できなかった。
弥生は自分の意志で必死に生きようとしている。
誰が邪魔することができようか。
羽鶴は自分にもそんな権利は無いことを知った。
本人が望んでいないことを強制するのは嫌だった。
病院へ行って治るものならば、弥生もそれを望むはずだ。
だから・・・。
「人の心配ばっかりしてるんじゃないわよ。」
弥生は前を向いたままで羽鶴に声を掛けた。
「全部、顔に出てるのよ。私も甘く見られたものね・・・。」
羽鶴が思っていることを見透かしているように。
いつもは羽鶴がしていることだった。
だが、今は反対に弥生が羽鶴の心を見抜いているのだった。
「心配ぐらいして当然でしょう?」
羽鶴は弥生の腕を掴んだ。
微かに羽鶴の手が震えていた。
「バカね・・・私がこれぐらいでどうにかなるわけないでしょう?私は、あなたが思っているほど弱い人間じゃないわよ。」
弥生は、自分の手をそっと胸に当てた。
「うん、弥生ちゃんがそこまで言うのなら。だったら、もう少し笑ってほしいよ。」
軽く弥生は笑って見せた。
つられるように羽鶴も嬉しそうに微笑んでいた。
だが。
手を当てた弥生の胸の奥では、心臓がキリキリと悲鳴を上げ始めているのだった・・・。