恋 〜白の章〜 第11話

「私、保母さんになりたいんだ。子供が好きだし・・・何か憧れてるの。」
ある日の帰り道、羽鶴が別れ際に言ったセリフだった。
弥生は定期検診のために病院を訪れていた。
最近は発作も起こらず、特に身体の調子も悪くなかった。
来なくて済むのなら病院に好んで来ることは無いだろう。
担当医に診てもらい、薬を受け取るためにぼんやりと座って待っていた。
「私の将来・・・か。」
そんなこと考えたこともなかった。
いつ病気が悪化するのか分からない中で、数年先の未来まで考えている余裕が無かったのだろう。
少し前までは、いつ死んでもいいと思っていた。
でも、今は違う。
一日でも多く生きていたい。
私自身の生を全うしてみたい。
「どうしたの、白河さん。」
掛けられた声の方を向くと、そこには弥生が世話になっている看護師がいた。
「何でも・・・ないです。ちょっと考え事をしてただけ。」
「白河さん、前よりも元気になってきたね。目が生き生きとしてるよ。」
それから弥生は上の空だった。
その看護師と別れてからも、ぼんやりとしたままだった。
ただ普通に高校を出て、普通に進学する。
そして普通に就職する。
漠然と思っていた。
もしも病気に勝てるのなら。
私にも何か出来るかもしれない。
遠くの廊下の先で、さっきの看護師が子供をあやしていた。
よく見ると、自然と子供たちの輪が出来ていった。
少し子供が苦手な弥生は、思わず顔をしかめていた。
だが。
自分が死ぬことを考えるよりも、誰かの命を助ける。
自己犠牲の精神なんて私が持っているはずが無い。
私が生き、そして他人を生かす。
死ぬことしか頭に無かった私だからこそ、命の尊さを知っている。
「私・・・もしかして、何かを見つけたのかも知れない。」
ちょうどその時、弥生の名前が呼ばれていた。
袋一杯の薬を受け取りながら。
私はこれを飲むことで、どれだけ生き長らえることができるのだろう?
でも・・・しがみついてでも、私は生きてみたい。
たった一人の母親を悲しませないために。
私のことを気遣ってくれる大切な友人のためにも。
「ここにお世話になるのは、すぐに終わりにして見せるわ。」
弥生は病院のロビーを横切りながら心で誓っていた。

家に誰もいないことは分かっている。
弥生はバッグから鍵を出すと玄関のドアを開けた。
家の中は静まり返っている。
当然、と言えばそれまでだ。
キッチンのテーブルに薬の袋を投げ出すと、自分の部屋へ入っていった。
今度は鞄を机の上に放り出し、着ていた服を脱ぎ捨てた。
Tシャツとスカートのラフな服装に着替えてベッドに横たわった。
「疲れたぁ・・・。」
運動をする体力はある方だが、日頃の運動不足が祟っているのだろう。
先月で弥生も18歳になった。
弥生が持っていた鞄は羽鶴が誕生日に贈ったものだ。
多少は乱暴に扱っていても、弥生なりには気を使っている。
発病してから何年になったのだろう。
今、ここにいるのが私が生きている証拠ね。
弥生は寝たままテレビのリモコンに手を伸ばした。
夏休みとはいえ、平日の昼間はワイドショーぐらいしか放送されていなかった。
こういうのは私は嫌いなんだ。
他人の噂話に花を咲かしているような人間にはなりたくない。
「・・・暇。」
勉強などはする気にもならない。
やる気があるのなら、当の昔に始めているだろう。
憂鬱な気分で勉強なんてやりたくもない。
疲れのせいか、ウトウトしかけたそのときだった。
家の電話が鳴り響く。
気分を害された弥生は不機嫌そうな顔をしていた。
居留守を使おうとしたが、出ることにした。
居間まで素早く移動すると、受話器を取った。
「はい、白河ですが・・・。」
弥生がそう言っても、電話先の相手は黙ったままだった。
またイタズラ電話か。
弥生の家には、悪戯電話がよく掛かってきた。
夜道で後ろを付いてこられたこともある。
頭にきたので、弥生は受話器を置こうとした。
「・・・弥生か、久しぶりだな。」
電話口の初老の男の声。
弥生は言葉を失った。
その声に聞き覚えがあるのは間違い無い。
聞きたくない声だった。
数年前の忌まわしい事件を思い出すから。
せっかく忘れかけてたのに。
細々とした今の生活が好きになれたのに。
どうして、この人から電話が?
「どうして・・・どうして、今頃になって電話してくるの・・・お爺ちゃん。」